長谷川新多郎の備忘録。最近は写真中心。


by phasegawa
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野村監督の私の履歴書

野村監督の連載が本日で終了した。34歳からプロの監督を務めていた人がアマチュア野球という格下の世界に身を投じた事実だけでも興味深いのであるが、この人の、苦労と栄光と挫折の繰り返しの半生を知るにつけ、やはり一貫したものがあるのだなと知らされた。自分の打席で代打を送られ、その代打が打ち損じることを祈っている自分に気がついた時に現役引退を決意したという。自身のもがき苦しんできた姿を晒している点で、自慢話ばかりの政治家などとは雲泥の違いの面白さであった。

なるほどと思ったのは、ヤクルトと阪神のチームカラーを比較した話である。
「ヤクルトでは私の哲学、思考が乾いた土に水が染み入るように選手たちに浸透していっていると感じたものだが、阪神では何を言っても馬耳東風、聞く耳を持たないという感じだった。(中略)阪神は生え抜き意識の強い球団で、外から来た人間に強い違和感を持っている。しかも、ファンもフロントも、マスコミまでも選手たちをかわいがる。球団創設六十年以上の歴史の中で出来上がった甘えの体質。『井の中の蛙』でずっと野球をやってきたので、私のような考える野球を理解できなかたのではないか。ヤクルトの選手が『大人』なら、阪神の選手は『子供』とつくづく感じたものだ。」
典型的な阪神の選手が今岡であり、能力があるにもかかわらず、それを出そうとしないと言う。
「覇気がないというか、一生懸命さが見えてこない。がむしゃらにプレーすればすごい選手になると思っていたからこそ、何度も監督室に呼んで注意したものだ。」
ある日、手抜きとしか考えられないプレーについに監督の堪忍袋の緒が切れた。
「監督室に呼んで、『お前、胸を張って一生懸命やっていますと言えるか』と問いただした。だが、無言。何を聞いても答えない。チームのムードを壊すし、仕方がないので二軍に落としたのだった。
禅に『前後裁断』という言葉がある。その一瞬、その一瞬に命を賭けて全力を尽くす、という意味である。プロの選手なのだから一プレー、一プレーに、自分の持てる力のすべてをぶつけなければならないのは当然のこと。だが、阪神では、『体力』『気力』『知力』『技術力』の四要素のうち、最も基本的な気力の面を問題にしなければならないのは寂しいことだった。」

野村監督には寂しい顔、ぼやく顔ががよく似合う。

「結局、今岡については、最後まで理解できずじまい。今でこそチームの中心となって働いているが、私が監督のときは、ファンを裏切る無気力プレーの連続に、泣かされ続けたのだった。」
今や阪神の打点王、大スター今岡のかつてのプレーはそんなにファンを裏切っていたのだろうか。むしろ一番裏切られたのは、ファンよりも野村氏個人ではなかったか。
仰木監督の粋な計らいだったオールスターのピッチャー・イチローには激怒し、阪神では3年連続最下位という不名誉を演じた野村氏なりに、野球ファンに対してはどう想いを馳せてきたのだろう。かつて野村氏を奮い立たせてきた、羨望と反骨の対象だった読売の人気も最近ではすっかり落ちぶれてしまっている。

阪神ファンの一途な応援と甘やかし体質は、世の中の物事には光と陰の両面がある真理をそのまま反映していると思う。タイガースっていいよね、というプラスの共感エネルギーは、それがあまりに甘美なために、人の弱さや甘さの多くを覆い隠してしまう。その辺が野村氏にはよく見えていたのだろう。3歳で父親をなくし病気の母を助ける極貧生活の中這い上がり、王・長嶋に匹敵する実績を出しながら「ボクは人の見ていないところでひっそり咲く月見草」と自分を語る野村氏には、清濁を知り尽くした人間の透徹した視点と同時に屈折した心根を感じてしまう。

野村監督をしてもお手上げだったダメ虎を劇的に立て直したのが星野監督だった。野村氏はオーナーの言葉を借りて自分と星野氏を冷静に比較している。「詰めが悪かった」と自分を認めるその様は確かに潔くはある。だが、間違っても缶コーヒーのCMなどにはお呼びがかかりそうもないキャラクターにしても野球理論にだけは絶対の自信を持っていたはずの野村氏は、自らにどう折り合いをつけていたのか。

連載の冒頭、野村氏は中国の思想家・呂新吾を引き、自身の監督人生は、でこぼこ道を「深沈厚重」たる指導者を目指して歩んできたと言っていた。「考える野球」こそ氏の神髄。しぶとくも底知れぬ暗さが魅力の人である。
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by phasegawa | 2005-06-30 22:35 | review

朝型宣言

帰宅すると、鬼の形相をした妻が立っていた。
事態を把握するのに数秒かかった。そうか、私の番だった。子供の迎えである。保育園への迎えは義母に、そして、義母の家に子供を引き取りに行くのを二人で連絡を取り合い交替でやっていたのだが、今日は妻が残業するがために私が頼まれていたのだった。私がいつまで経っても引き取りに行かないため、義母が心配して妻に連絡、妻が仕事を中断して帰ったらしい。私の方はすっかり忘れてしまっていた。
妻は、残業せざるをえないハードなプロジェクトが8月いっぱい続くということで、相談の結果、これからは原則的に朝夕の当番を逆にし、私が夜に義母宅へ子供を迎えに行き、入浴と寝かしつけを担当することになった。朝は早くから出勤できるようになるが、夕方はほぼ定時で会社をあがらないといけない。そんなんで仕事が回るかという心配もあるのだが、最近は飲みが減ったし、自宅でできる作業も多いので、なんとかなるようにも思う。早朝から行動開始できるとなると1日が得な感じもするといえばする。
それにしても、作ろうなどとは夢にも考えていなかったし、せっせと作ってた訳でもまったくなかったのに、いつのまにか2匹もできてしまっていた。俺は知らん、と言ってみたいが、なかなかそうもいかない。保育園の長女の担任からは、まじまじと顔を見つめられて「お父さん、娘さんにそっくりですねー」と言われた。失敬な。なんで親が子に似にゃならんのだ。次女は、ジャムおじさんの「おいしくなあれ、おいしくなあれ」のフレーズがお気に入りで、それを連発しつつしょっちゅうクッションをこねている。そんな娘らを見ては、早く手がかからんくなるように、「おおきくなあれ」の心境である。
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by phasegawa | 2005-06-27 23:59 | diary

ペリカンのパン

b0051385_21275615.jpg小ロールを買いに行ったのだが、今日は中ロールしかなかった。家から歩いて5分のこの店のパンは、密度が濃く、モチモチとした歯応えは、とにかくうまい。
メニューは食パンとロールパンのみ。それが、甘いパンに興味が薄い私にとっては願ったりでもある。作業場のような店舗は、何の飾り気もなく、小学校の下駄箱みたいな棚に無造作にビニール入りのパンが突っ込んであるだけ。店に入った目の前がカウンターとレジになっているので、客が3人もいると次の客は外で待つことになる。もっとも、選択枝は少ないので、客はカウンター越しに下駄箱を眺めては、手早くオーダーと会計を済ませていく。予約しての取り置きが多く、浅草界隈の喫茶店、そしてクリーニング屋にも卸売しているらしい。オーナーの話がいい。弟子入りをお願いしたいくらいだ。
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by phasegawa | 2005-06-26 00:01 | diary

57'13"

往路29'10"、復路28'03"。気温30-31℃。雨も風も暑気も好きな私としては、朝からの日差しの強さと気温上昇に気をよくしつつ張り切って家から飛び出したが、案の定暑いものは暑く、汗が噴き出し、意識が朦朧となる。隅田川は、先週とはうって変わって水かさが低い。先週あれほどウヨウヨいたクラゲ達も今日は影を潜めていた。帰宅後、冷たいお茶を一気に1リットル飲んで生きかえる。

ほぼ同時刻、走り慣れたコースで死者が出ていた。熱中症や心臓ではなく、水死とは。。
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by phasegawa | 2005-06-25 17:10 | run

査定と目標

スケジュール表の中に"査定MT"がずらっと並ぶ季節になった。
「査定」とは、手元の大辞林によると、「物事を調べて、その等級・金額・合否などを決めること。」とある。ならば、Meetingの中で、「来月のボーナス、こんなんでどう?」「冗談でしょ。そんなはした金ではやる気が出ないので他社に行きます。」「まあまあ、じゃあ君にだけちょっと色つけるから。」などといった生々しい会話ができると有意義なのかもしれない。でも、こんなんでどう?の世界だといかにも査定者の恣意性が働いて不公平な感じだ。なので、企業としては、客観的で公平な人事評価制度を厳正に運用している姿勢を打ち出さなくてはならない。そんなこともあって、今年は新しい評価シートの導入となり、表の桝目をたどったり、掛け算をすることで、評点がはじきだされるようになった。その評点の数字を元に更に何らかの係数を導き出し、総賞与予算に乗じることで支給額が決定されるとすれば、なんともシステマティックな感じではある。しかし、そんな風にして全てが決まることは、たぶんない。

現在のフォーマットに従えば、自分が設定した計画目標の達成度如何が点数算出に大きく意味を持つ。とすれば、自分の計画目標がいかに自分にとっては挑戦的であるかという点をことさら強調しつつ、目標を達成し易いように都合よく設定することが評点最大化のためには合理的な行動になる。そうなると、例えばこんな会話が発生してくるだろうか。上司「君にはもっと高い目標をもってもらいたいんだ。」 部下「無理です。これが精一杯です。これでも自分にとっては大いに達成しがいのある目標です。」 上司「そんなことはないはずだ。彼だってこれだけ頑張るって言ってるんだ。君ならもっとできるだろう。」 部下「できるかどうかわからないことをできると言うのは無責任です。」 上司 「君には期待しているんだ。やってみなくちゃわからんじゃないか。」 部下「自分のことは自分が一番わかってます。無理をすれば逆に他の仕事が疎かになるかも知れません。」 上司「いいから。これは業務命令だ。」 部下「やれって言うならやりますけど、どうなっても知りませんよ。」 こうなってくると、社員の士気はあまり上がりそうもない。

どこまで高い目標を設定するか、「挑戦的」の定義とは何なのか、そんな話をてんでバラバラにあちこちで繰り広げることが企業にとってプラスなのかどうか。いっそ社員個々の目標を自己設定ではなく、最初からトップダウンによって決定・通達する方式の方が公平かも知れない。少なくとも、部下の目標の妥当性を判断する上司の段階においては、一致した共通認識が生まれていないと成り立たない。それは、理屈というより価値観の領域に属する話ではないか。おそらく、会社の目標とは何か、その目標に到達するためにできうることは何か、といった議論をしつこく重ねることで少しづつそうしたカルチャーみたいなものが醸成されてくるのだろう。いずれにしろ、目標管理に基く人の査定は、容易なことではない。

ゴーン氏によってすっかり有名になった用語が「コミットメント」である。達成のために厳しく責任を感じなくてはならない目標、ということで、日本語にすると長ったらしくなる。それほど日本語の「目標」の概念があいまいだったということか。まあ確かに「不退転の決意」とか言っても誰も本気にしないかも。要するに日本の経営者に目標意識が薄かったと。順序としては、まず経営者がシンプルでクリアなビジョンを示し、コミットせよ、達成できなければ即刻辞任せよ。その覚悟を持った上で、社員に対してもコミットを求めよ、ということになる。やはり経営の責任は重い。

ゴーン流の定義によれば、結果に責任を負うコミットメントよりも更に高い目標が「ターゲット」である。私も、達成度云々とは違う次元で、より高い目標に向かって、自分を反省し、学び、付加価値を身につけようとする姿勢を重視したい。自分はかくいう人間である、と決め付けるのではなく、目標設定にあたり、従来の思考の殻を破ってでも、違う自分の可能性を模索しようと考え抜く意識の有無に関心は向くのである。

ドラッカー氏は、1954年の著『現代の経営』の中でGMの経営者の言葉を引用している。曰く、「どんな馬鹿でも予算を守ることはできる。しかし、守るだけの価値ある予算を立てられる人は、めったにいるものではない」と。また続けて言う。「誤った予測に基づいた目標に従うくらいなら、全然目標を持たない方がまだましである。」 耳の痛い話だ。
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by phasegawa | 2005-06-20 00:01 | business

57'08"

往路29'17"、復路27'51"、気温推定27℃(いつもの両国橋近くのNTTの寒暖計が故障していた)。先週の50分代が嘘のよう。今日はTシャツのセレクトも悪かった。厚手の綿生地で、汗をたっぷり吸い、身体がムワッとして呼吸にかなりの息苦しさを感じた。

大雨が降った訳でもないのに隅田川はタプタプ。満潮か。そして、いたるところに無数見かけた浮遊する物体は、丸々太ったミズクラゲの群れであった。ガキの頃から海遊びは熱中してきたものだが、昔から聞かされてきたのは、クラゲの発生はお盆過ぎである。6月にしてこれだけの大量発生に遭遇したのは初めてかも知れない。やはり温暖化か。

ところどころ遊歩道まで浸水しており、水たまりを踏みしめ、水しぶきをあげながら走る。それなりに気持よい爽快感もある。さて、水しぶきの快感といえば、映画「雨に唄えば」を挙げない訳にはいかない。フォルクスワーゲン・プレゼンツによる、そのリメイクCM(5.6MB)を猪蔵さんに教えてもらう。秀逸。
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by phasegawa | 2005-06-19 16:04 | run

代表者印押印等申請書

ついに当社にも「代表者印押印等申請書」導入の日が来た。ほんの6年前なら、会社の代表者印も、私が自分のズボンのポケットに入れっぱなしで出歩いていたくらいだったのに。それが机の引き出しに入り、手提げ式の金庫に入り、備え付けの金庫に移り、業務用冷蔵庫みたいな大型金庫に納まるようになった。ただ、金庫の開け方は教えてもらえていたので、私が勝手に会社の印鑑を持ち出すこともできていた。それが昨年の引越以降は、私も金庫に触れないようになった。それでも、金庫を管理する総務課の人に「これ押しといて」と口頭で頼めば押印してもらえていたので、ある意味楽になる一面もあった。ところが、いよいよ私も、捺印するためだけのための申請書に記入・署名・捺印をして提出し、受理してもらわなくてはハンコ一つ押せないようになってしまったのである。

こうした手続きの類は実に面倒くさい。社外への営業で忙しい時に、なんで社内の書類ごときに手間をかけにゃならんのだ、とイラつく。会社が成長しているのだと誇りを感じられたりすると、仕方ないかと納得できるものなのかも知れないが、何より従来とは明白に異なる目先の煩わしさにはうんざりさせられる。

面倒くさがりな私が新たなルールの導入に渋々従うとき、負け惜しみのようにしてよく言うのは、形式だけ整えたって中身が伴わなかったら意味がないんじゃない、という話だ。例えば契約がらみだったら、個別に起こりうるリスクを充分想定した内容になってるの?言い回しをもっとわかりやすくできないの?条件自体をもっと儲かるようにギリギリまで交渉できないの?などと言ってみる。でも、言っただけでは事態はあまり変わらない。契約作りや条件交渉に本気で取り組むにはそれなりのエネルギーを要するからだ。

印鑑の取扱いのようなコーポレートコンプライアンスの話から、切った張ったの商談のクロージングまで、企業の活動領域は広い。申請書やら決裁制度やら規程やらにつき、役員と言えども例外を許さずに守るべきルールを整備し、内部牽制の働く健全な職務分掌体制を敷くことは組織の維持・発展のためには不可欠なステップなのだろう。分業制を採用して各々の得意部門別のプロフェッショナルを育てることは、企業に奥行きを生み、総合的なグループの体力強化にもつながりそうだ。

しかし、敢えて言っておきたい。
どんなに書類の手続きが重視されるにしても、アイディアの価値は軽視しないで欲しい。
役割分担が進んでも、「それは私の仕事じゃないので知らない」とは言わないで欲しい。
想像力を求められない仕事はつまらなすぎる。
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by phasegawa | 2005-06-14 23:56 | business

『働くということ』

80歳のイギリス人がILOから刊行した
1930年、ケインズは技術進歩の恩恵によって「100年後にはわれわれは週15時間程度だけ働くようになっているはずだ」と予言した。しかし、世の中はその後、逆の方向に進んだ。それは、人間の際限のない消費の欲望、競争意識、仕事中毒症のせいであり、競争を肯定する哲学が自由市場主義であった。
市場至上主義のスローガンは、「自助自立」、「自己責任」、「依存排撃」、「選択の自由」、「結果の平等ではなく機会の平等」、「自主性」、「起業心」といったフレーズ。この論法によって、社会の連帯意識や労働者保護思想は後退し、強者が益々強者になるべく格差の拡大が進んでいる。そうした市場主義は、ビジネス・スクールから排出されるグローバル・エリートに象徴されるアメリカの文化的覇権と、市場主義に従わない者に資本の枯渇を強いる金融市場の力によって世界的同質的に浸透を続けている。
しかし、著者は、金融市場のグローバル化も経済制度も未だこれから選択の余地があるとする。たとえば、資本対労働のバランスにも三種ある。即ち、ナイフが抜かれた状態の敵対関係にあるアングロ・サクソン型、ナイフが鞘に収まり、ルールに従って交渉・妥協する大陸ヨーロッパ型、ナイフが戸棚にしまわれて錆び付いた状態、つまり慣習の惰性によって維持されている日本型があるとする。
日本型の労使協調的価値観は、株主の利益こそを唯一の目標とするアメリカのプレッシャーにもっとも強くさらされているが、今後、資本主義の多様性が失われることも考えにくく、アメリカの覇権が永続するとも考えられない。中国の経済的成功が自然に文化的影響力を蓄えていくことにもなるかも知れない。

アメリカの覇権に懐疑的であるが、その根拠が充分に語られているとは思えなかった。だが、永年の研究家なだけに博識である。徳川時代の日本人が個人の満足追求よりも社会的有用性を重視したことを好意的に語っている。渋沢栄一がリスクについて語った話は初めて聞いた。「起業家リスクと投機的リスクの道徳的違い-つまり、結果が幸運だけでなく、顧客を喜ばそうとする努力で決まる場合と、結果が幸運と狡猾さだけで決まる場合との違い」について。今日、同一のリターンを得るためなら最小のリスクを選ぶのが投資の正論であり、リスクに道義的な区別などはつけないものだが。
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by phasegawa | 2005-06-13 00:26 | review

50'32"

気温が26-27℃と先週より更に暑くなったが、往路25'33"、復路24'59"で2月以来29秒の新記録更新となった。信号運が良かったこともあるが、一番の理由はたぶん前日にある。

初めて指圧マッサージに行ったのである。というのも、この4、5日どうにも腰痛に悩まされていたからだ。最初は気が進まなかったのだが、妻の強い勧めに渋々従い、妻が産前通っていた、おばちゃんが一軒家で営んでいる治療院に行き、60分4,500円の施術を腰に限らず全身に受けてきた。

腰痛が消えた訳ではなく、身体に特別の変調があったとかリフレッシュされたような自覚はあまりなかったのだが、おそらく下半身の血のめぐりがよくなって、走る際の筋肉にプラスの作用があったのだろう。
ところで、マッサージそのものよりも、おばちゃんのコメントになるほどと思った。

「お客さん、肩はこってないけど腰から下がカチカチだねー。だから腰にくるんだよ。」
「カチカチ」というのは痩せているとか筋肉質であるというのとは違って、よくわからないが、とにかくあまり好ましくはないらしい。
「これでも1週間走ってないんですけど。で、どうすればいいんですかね?」と私。
「お客さん、身体を冷やしすぎなんじゃないの?」
「いやー、家では私が一番厚い布団被って寝ているし、妻からもあんたは寒がりねと言われているくらいなんですけど・・・・。あー、そういえば、シャワーばかりで風呂にはほとんど入ってませんね。」
「それだわ。最近そういう人多いんだよね。子供の頃から風呂に入ってなかった訳ではないんでしょ。」

確かに、実家にシャワーはあったが冷たい水しか出なかったので、基本的に毎日風呂には浸かっていた。それが大学入学で風呂無しの下宿に住むようになり、風呂屋代は相当ケチっていたし、社会人以降は温泉にでも行かない限り入浴する習慣がない。そういうツケがこうして回ってくるのか。

実は、マッサージの類を躊躇していたのは、その癒し効果によって天にも昇る恍惚の心地を知ってしまったりとか、あまりに気持ち良過ぎてハマッてしまったらどうしよう、などと妄想が働いていたからだった。だが、グリグリとねじりこんでくるおばちゃんの執拗な指の動きは、こちらが「あうっ」「ひいっ」とうなるほどのそれなりの痛みをともなう刺激があるのは確かであっても、陶酔するほどのものではなかった。それよりも、ランニングの記録更新を実現させる効能と、自分の身体の意外な一面を知り得た点で収穫であった。
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by phasegawa | 2005-06-12 14:20 | run

幸せ

誰かが「俺は幸せを知らない。」と冗談半分に嘆いていた。我が身を顧みて「では、俺は幸せを知っているのか?」と問うに、はて、よくわからない。
幸せの実感とは、自分の主観であって他人が窺い知れるものではない。だから、周囲から幸せそうに見える人達、たとえば裕福な家に生まれたとか、所謂三高、才色兼備、素敵な彼氏彼女がいる、友人が多い、結婚して子沢山とか・・・ こういう人達は、幸せの条件を備えていると世間からは言われそうだが、どんなに傍から羨ましがられたところで本人達が実際自分らは幸せであると思っているかどうかはわからない。収入の多寡や勤め先の企業規模の大小で比べたとして、幾分の自己満足なり周囲の目を意識しての優越感なりを得られるものかも知れないが、それで測定できる幸せ度は絶対的なものではない。
幸せを知るとは、不幸を知ることでもあるだろう。前述のような恵まれた境遇にいた人が何らかのはずみで転落してしまった場合、最初から良い状況を知らなければ落ち込まないで済んだかも知れない。恋愛をしない人が失恋しようがないように。逆に言えば、心から傷つくような不幸を味わずして幸せをかみしめる想いは経験はできないのかも知れない。不幸を極めることが幸せの絶頂に登りつめるための確実なルートであったりして。
「ささやかな幸せ」とは言うが、「大きな幸せ」とはあまり言わない。ささやかな幸せほど、幸せを望む人の手に届きやすいからであろう。道端で百円玉を拾うような幸せなら大抵の人が知っているはずだ。
幸せを知っている人とは、幸せとはその程度である、と割り切れた人であるとも言える。自分を肯定する力とも言えるであろうか。今、自分は幸せであると思えるとしたら、それはそれで結構なことだなのだろう。だが、本当にそれで満足していられるのか。自分が未だ全く気づくことができていない幸せをどこかに見つけられないのか。それは、まだ知らない自分の可能性に飢えることかも知れない。自分を知れば知るほど、探せば探すほど、取るに足らない自分の空虚さを感じてしまうものだ。それでも、自分を疑ったり肯定したり、一喜一憂したりながら、幸せを追いかけてもがいてゆかねばならないのだろう。やれやれ。
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by phasegawa | 2005-06-10 05:27 | diary