長谷川新多郎の備忘録。最近は写真中心。


by phasegawa
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これの次に選んだ。いきなり「エピステーメー」とか出てきて思想用語がとっつきにくかったが、そのぶん前者よりも体制についての考察が深く、理解できた箇所だけでも思いのほか面白かった。

資本主義や自由競争、自立や自己実現を志向する意識。そうした今日の常識の背景にも権力のゲームが発生し、勝者陣営による意図が働く。著者の言う勝者とは、「家族的価値の回帰を唱える新保守主義、市場原理による福祉国家解体をねらう新自由主義、権威主義的ポピュリズム、これらの接合によって出現した新たな権力」であり、ゲームの主導権を決定づけた転換点は1968年であったとされる。

言及対象は、生産中心社会に続く「脱工業社会」、肉体労働や精神労働同様の「感情労働」、労働の商品化が困難な点で感情労働に似る「介護」、同じく「QC活動」、「企業社会」、「消費社会」、「社会(コミュニティ)参加活動」、「リスク社会」、グローバル化の帰結としての「見せしめの貧困」、「宿命論と親和的な自己責任言説」等。

働く人の何気ない自発性が期待されがちな労働の現場をこれだけ広範囲に渡って一貫性を持った支配構造として説明されるのは新鮮だった。分析のフレームワークはいろんなケースに応用できそうだ。権力の都合のいいように、私達は知らず知らずのうちに考え、行動させられているのだと気づかされる。だから何なの?何に抵抗するの?と素朴な疑問もあるだろうが、実感が沸きにくいことこそを恐怖せねばならないのか。以下引用。

 「ネオリベラリズムにおいては<怠惰>は罪である。(略)しかし、<怠惰>への非難や攻撃にはたんなる寛容の欠如以上の積極的理由があるのではないだろうか。
 正規雇用層と非正規の不安定雇用層とのあいだに階層分化が進行しつつある現在、同一労働にもかかわらず歴然と存在する賃金と社会保障の格差が問題になりつつある。ここで問題となっているのは、非合理な格差という以上に、この非合理性を基盤としてかろうじて保たれている『正規』雇用勤労者の自己肯定ないし威信の揺らぎと不安である。自分たちの労働には価値はなく、むしろ遊んでいる者の<労働>のほうに価値があるとしたら?怠け者のほうが生産的であるとすれば?あるいは、サボりが能動的であるとすれば?価値が『尺度の彼岸』」あるというポストモダン的事態の全面化は、<マジメ>な者たちにこのような実存的不安を惹起ずる。ここに不安を抑え込む必要性が生じる。彼ら<マジメ>なマジョリティに安心を与え、この格差を最終的に正当化するものこそ、勤勉を美徳とする労働論理ではないだろうか?勤勉な主体としての自己肯定は、<怠惰>への道徳的攻撃によってはじめて可能となる。
 (中略)
 『君たちは働くべきだ』というネオリベラリズムのワークフェア言説は、若者にじっさいに勤労意欲を喚起させることを本気で狙っているわけではない。やりがいのない、しかも低賃金の労働を若者が率先して行うなどと、いったい誰が本気で信じるだろうか。
 そうであるなら、『自己実現』、『労働の喜び』、『やりがい』といったことを強調する言説が後を絶たないのはなぜだろうか。こうした言説は言う。賃金は低くても、やりがいのある仕事なら満足すべきだ、と。だが真に魅力的でやりがいのある労働であれば、外部からのどんな正当化も不要のはずである。また内在的な「労働の喜び」を有しているなら、そのことを褒めちぎる言説を待つまでもなく、誰かが率先してやっているはずである。とすれば、これらの冗長な言説は、労働倫理を教え込むというより、<怠惰>への道徳的攻撃を可能にするという理由で採用されていることがわかる。結局それは<働かざる者>=<遊ぶ者>の自己価値化への<反動>、すなわち反動(ルサンチマン)に基いており、この自己価値化によって生産された価値を再び剥奪するのである。
 (中略)
 日本においても、近年の『フリーター』や『無職』の若年層が犯罪予備軍としてコード化され、無価値なもの、さらには危険なものに貶められつつある。(略)だが、これら価値剥奪戦略としての取り締りが発動するのは、彼ら若者こそ『自分のなし得ることの果てまで進んでいく力』すなわち自己価値化のポテンシャルを有しているがゆえであり、その力への恐れゆえの<反動>なのである。
 (中略)
 『自分のなし得ることの果てまで進んでいく力』とは対照的に、ネオリベラリズムが生産し、依拠するのは自己検閲的な主体である。ネオリベラリズムにおいては、他者(=市場、消費者)による自己の評価があらゆる評価に優先される。つまり自分の行動や労働や作品が、市場においてどう評価されるかが自己の行動、労働、作品において最優先事項となる。その原理はマーケティングであり、市場における評価=検閲がフィードバックされ内面化された場合、それを通常、自己検閲と呼んでいる。そして、自己検閲によって生み出された『力』は、何も生み出さない者に従属しているという点で空疎であるのみならず、空疎であることを『称賛』しようとする点で、さらにきわめて<反動的>である。『ニーチェが弱者とか奴隷とか呼ぶのは、最も弱いものではなく、その固有の力がどのようなものであれ、自分のなし得ることから分離されている者のことである』(ドゥールーズ)。他者のまなざしを糧にする価値や力はそれ自体、寄生的なものにすぎない。自己検閲的主体とは、『自分のなし得ること』からあらかじめ分離されている者のことであり、この分離という事態にすら気づかない者のことである。」
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by phasegawa | 2005-05-03 21:36 | review

長谷川耕造氏の苦笑い

苗字と趣味のマラソンが私と共通する長谷川耕造社長のインタビュー記事が今朝の日経に出ていた。

前職時代、この社長に何とかして会えないものかと南青山のグローバルダイニングオフィスに足繁く通ったり、熱烈なラブレターを書いてみたりとあの手この手を考えたものだったが、結局願いは叶わなかった。その後、いつだったか偶然NOBU TOKYOで出くわしたことがあったのだが、想像通りの強いオーラを発する人だった。

経営は透明が一番、ということで、会社の意思決定を行う会議は店長会議の多数決のみ。社長も1票しか議決権を持たない。店長の給料は売上連動、異動は立候補制。役員から社員まで全員の評価も給与も完全公開。実力と実績がすべてというシンプルな社風。これで強い企業にならない筈がない。また、こういうプレッシャーのキツそうな企業は離職者が後を絶たないであろうことも想像に難くない。

記事は、週一企画の『私の苦笑い』であり、1999年12月に会社が上場した後の1年間に計46人の会社幹部のうち4割の18人もが退社してしまって慌てたという話であった。結果的に空いたポストを社内公募しているうちに3年ほどでダメージから回復したというのだが、長谷川氏はこれを「苦笑い」ではあっても「失敗談」とは言わない。優秀な人間ほど辞めやすく独立しやすいものであり、独立組が今もそれぞれの店を続けているのであれば、「成功談」なのだと言う。結果論の面もあるにしろ、「日本的家族経営」よりも「若い野心を最大限に尊重したい」という語り口は強弁とも思えず清々しい。真似できそうにはないが、明解さが好印象の経営者である。

「―グローバルダイニング社では、徹底した実力主義による経営が進められていると伺っています。毎日が競争で、周りはみんなライバルだと、人間関係がぎくしゃくしてくるのではないかと思いますが、会社内での雰囲気は、どのような感じなのでしょうか?

『1部、2部、3部とあって、毎年入れ替え戦をやるような、プロのスポーツリーグを運営している感じに近いですね。毎日行われるゲームの中で、本当に自分の力を上げたいと思う人だけが集まればいい。スポーツのようにフェアに競い合えば、人間関係がぎくしゃくするようなことはないと思います。
世の中は競争で、それに負けたら会社は潰れてしまうわけです。競争は言い換えればチャレンジすること。それこそが生の証だと思うんですよ。人間が生きている間は、心臓が、この筋肉の塊がずっとチャレンジし続けているわけで、心臓が止まったら「死」を迎えるわけです。そもそも競争って本当は楽しいことなんじゃないのって僕は思います。何か好きなことにチャレンジしていれば、みんな目がキラキラ輝いてくるし、人生を楽しく生きるための道具になるじゃないですか。ビジネスでも、スポーツでも、趣味でも何でもいい。どうしても解けないゲームがあって、それをなんとか解いてやろうとチャレンジするのは、ゲームとの競争でしょう。そういうふうに、僕らは接客が好きで、みんなで楽しく競争して、食いぶちもちゃんと稼げる会社にしたいと思っています。』」
早稲田大学学生誌『新鐘』No.70校友インタビューより
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by phasegawa | 2005-04-25 15:47 | review

最近の日経文化面

この3ケ月程の日経「私の履歴書」は迫力がある。2月は、95歳になっても「私には『引退』という言葉はない」と言い放つピーター・ドラッカー。ウィーンの役人の家に生まれ、幼少期からフロイトやトーマス・マンと親交を持ち、ハプスブルグ家の凋落やナチスの台頭を肌身で体験、新聞社の見習い編集者からチャンスをつかんで文筆家、コンサルタントとして頭角を現して行く様は、現代経営学の父の名に相応しく興味深かった。
3月は、免疫学者、石坂公成。「基礎科学者はたとえ何かの発見をしても、それは元々自然がつくったものである。でも、自然のすばらしさは感激に値する。基礎科学者は誰もほめてくれなくても自然の美を発見したことに満足なのである。」、「英語で嘘をつくことができないので、嘘をつくことを忘れてしまった。照子の場合は正直の上に"ばか"がつく。幸いにして正直であることは科学者にとって最も大切な資質であった。」終盤に語られた夫婦愛はあまりに美しく、思わず同氏の著書が読みたくなったのだが、あいにく品切れのようだ。
今月は、農民県新潟では珍しい起業家である、ヨネックス創業者の米山稔。家業の下駄屋から魚網の浮き作りに進み、浮きが桐材からプラスチック製に移行すると、バトミントンのラケット作りに進出。OEM先の倒産、本社工場の全焼といった苦難を乗り越えて日本一、そして世界へ、というところまで話は進んでいる。
さて、そんな感動の連載から距離にしてわずか7cmしか離れていないスペースで、ネチネチとスケベエネルギーを発散し続けているのが「アイルケ」こと渡辺淳一のエロ小説である。偉大な「私の履歴書」執筆者に対してあまりに不遜な行為ではないかと気が気でないのだが、読者からのクレームはないのだろうか。もっとも、以前にも言及してしているが、結局私も毎日欠かさず読み耽けてしまっており、己のスケベさが恥ずかしい。
ところが、そんな羞恥心を爽やかに吹き飛ばしてくれる書き込みを見つけた。日経読者なら笑えるんでないか。That is 「なりきり愛の流刑地」。
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by phasegawa | 2005-04-18 00:01 | review

『小倉昌男 経営学』

元ヤマト運輸会長の1999年の処女作。何が凄いと言って、1976年に当事全く世に存在していなかった宅急便事業に参入を果たし、今日の従業員14万人、年商1兆円企業の土台を作ったのである。「経営者にとって一番必要な条件は、論理的に考える力を持っていることである。なぜなら、経営は論理の積み重ねだからである。」重い言葉だが、本書を読むと、正に小倉氏自身の思考力の強さが、いかにして事業を発展させ得たのかがよくわかる。労働集約的な運輸業において、「全員経営」をスローガンに大量の社員を統率し、合理的なシステムを練り上げて、役人とも真っ向から戦った。鉄道貨物や百貨店の配送業務から決別し、ベテランよりも素人を使ってセールスドライバーを育成し、個人宅配市場を開拓、様々なサービスを提案してきた業歴は、今日のユビキタス社会を先取りしたものではなかったか。1995年にすっぱりとヤマトの経営からは身を引き、今は障害者の自立支援を兼ねたパン屋事業に取り組んでいるところがまたいい。以下、気に入った箇所を抜粋。

「社員全体がやる気を出し、与えられた仕事を自主的にかつ自律的にやり、目標とする成果を達成するには、どうしたらよいのか。キーワードはコミュニケーションである。具体的には、まず企業の目的とするところを明確にする。達成すべき成果を目標として明示する。時間的な制約を説明する。競合他社の状況を説明する。そして戦略としての会社の方針を示す。その上で戦術としてのやり方は各自に考えさせる。しかもなぜそうするのかを納得のいくように説明する。
ところで組織が大きくなると、社員のやる気を阻害する者が社内にいることが多い。注意しなければならない点である。(中略)とくに社歴の長い者が要注意である。
こうした社員は、自分の経験をもとに仕事のやり方を部下に細かく指図したがる傾向がある一方で、会社の方針とか計画をなぜそうなのか説明することが苦手だったりする。しかしそうなると、社内のコミュニケーションがそこで途切れてしまうことが多い。
だからこそ、コミュニケーションの推進役として中間管理者が大事な役割を負っているのだ。彼らが任務を果たしてくれるかどうかが、やる気のある社員集団ができるかどうかの決め手であることを忘れてはならない。
第一線の社員はやる気を持って仕事に向かっている。ところが社長と第一線の社員の間に幾層もの管理者がいると、とかくコミュニケーションが円滑にとれない恐れが生ずる。人から人へ正しく伝わるということ自体が極めて難しい。人は耳から聞いたことを頭の中で整理し、取捨選択して他人に伝えるのだが、往々にしてその過程で間違って伝えられる。だから、社長と第一線の間にある管理の階層はなるべく少ない方が良いのである。
といって、社長と第一線が直結するのは難しい。ヤマト運輸の場合、社長と各地ブロックにいる支社長とは毎月の経営会議で直接のパイプを持っている。支社長と第一線のSD(Sales Driver)、店長、センター長がいるが、その間のパイプが正しくつながれていることが大事なのだ。
それと同時に、情報が正しく伝わるように、的確な表現をすることが大事である。売上を伸ばせ、利益を確保しろなどといっても、情報を聞く側は、単なる訓示やお説教としか受け取らない。それは正しいコミュニケーションではない。コミュニケーションとは、内容が具体的で曖昧でないものでなければならない。『サービスが先、利益は後』という言葉のように、簡潔で方向がはっきり示されていることが必要である。
企業は金太郎飴のようでなければいけない、といわれる。どこを切っても、同じ顔が出ることをいう。金太郎の顔は複雑であってはいけない。単純明快であるから、どこを切っても同じ顔が出るのである。社長は全社員に、何時も顔と声が伝わるように努力しなければならない。それには社内だけでなく、広くマスコミを通じて自分の存在をアピールする必要がある。どんな場合も簡潔に筋の通った話をする訓練が大事なのである。
お客に接する機会が多ければ、やる気のある社員が育っていく。その意味で、製造業より第三次産業の方が全員経営の体制をつくりやすいといえる。もちろん製造業でも、社員に工夫の余地を与えれば、やる気のある社員を育てることはできる。宅急便は、全員経営を実行するうえで、恵まれた事業だと思う。」

「ヤマト運輸に入社したとき、私が最初に配属されたのは人事部の勤労課であった。子会社の静岡運輸に出向したときも総務部長で、いわゆる労務畑の育ちであった。正直いって営業はあまり得意ではなく、労働時間の管理とか賃金の管理のほうが向いていたと思う。
その私が、四十二年に及ぶヤマト運輸の勤務のなかで、つくらねばならないと思いながら完成し得なかったものがある。人事考課の制度である。
人事考課というのは非常に大事なものだ。社員が一生懸命働いているのは、自分の仕事を認めてもらいたいからである。そして社員の働きぶりを公正に評価し、昇進や昇給に反映することは組織の活性化を図る上で必要不可欠である。
しかし、その方法論になると、大変難しいことに気がつく。日本では、仕事が社員個人に直接結びつくことが少なく、集団で仕事をこなしているからである。
人事考課を正しくやるために実績評価をしようと思うと、まず各社員ごとに、やっている職務の分析から手をつけなければならない。それが難しいのである。
たとえば、女子社員は、-最近は大分改善されたが-、お茶汲みとか書類のコピー作りとか雑用が多く、本来の仕事にかかった時間の分析がうまくできなかったりする。
そこで営業所という集団を単位として実績を評価しようとすると、やはり壁にぶつかる。たとえばの話、前任者の所長が優秀で、その所長が代わった後にその成果が現れるケースがあるが、この場合、どうやって評価を下せばいいのか、難しい問題である。
それから、評価制度に常につきまとう評価者の個人差の問題がある。ある上司は全体に点が甘く、ある上司は辛い。こんなばらつきが出るのは充分に考えられる。また、点に差をつけず全員に同じ点をあげる上司もいるだろうし、極端に成績の高低差をつける上司もいるだろう。
それを調整するために著名な賃金評論家の考案した方式を勉強して実施したこともあったりしたが、納得のいくものはついに見つからなかった。
私の結論は、上司の目は頼りにならないということであった。ただ、社員にとってみれば、仕事をやってもやらなくても評価が同じでは納得しない。一生懸命やった人とやらなかった人に差をつけなければ、公正さが疑われ、社内秩序が維持できなくなるおそれもあるわけである。
そこで考えたのは、「下からの評価」と、「横からの評価」。下からの評価は部下による評価、横からの評価とは同僚による評価である。そして評価項目は実績ではない。”人柄”だ。
誠実であるか、裏表がないか、利己主義的ではなく助け合いの気持ちがあるか、思いやりの気持ちがあるかなど、人柄に関する項目に点をつける。
体操の採点のように、複数の社員の採点を集め、最高の点と最低の点を外し、残りを足して平均点を出す。つまり多くの目で評価する。
日本では、客観的に通用する実績評価の方式は見当たらない。ならば、せめて次善の策として下からの評価を行ったらよいのではないかと思ったのである。もちろん単独ではなく、他の制度と併用するのであるが、私は、人柄の良い社員はお客様に喜ばれる良い社員になると信じている。」

徹底して論理を尊重する人が、人柄も重視する(できる?)あたりが小倉経営学の真骨頂ではないだろうか。
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by phasegawa | 2005-03-26 17:43 | review
当社新刊。付属CD-ROM内のデータの一部を切り取ってみた。元画像100点は各々1654×1654ある。
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by phasegawa | 2005-03-20 00:52 | review
発売から9ケ月、3,800円の投資に躊躇してきたが、マーケットプレイス価格もあまり下がらず、文庫版を待てずに今更ながらの購入。なんとなく先入観として『薔薇の名前』のような重厚感を予想していたのだが、全くの見当違いでシドニーシェルダンのウンチク満載版という感じか。しかし、上巻はよかったが、下巻が残念。序盤の息をつかせぬ華々しさが、後半収拾つかなくなってきて、明らかにされる黒幕の人物設定など、えっなんだよ、とがっかりさせられるものだった。有名な絵画や建造物が次々に登場してアクションシーンも多く、映画化もよくわかるのだが、内容の派手さがかえって人物の描き方の浅さを印象づけている気がした。沢山あるレビューを見ると、私と同様なケチをつける人もいるし、絶賛する人もいるようだ。世界1,000万部、日本100万部のエンターテイメント大作であることを一応納得。こういう本でミリオン売れるのだったら、○○○を出したらその1割程度でも売れるだろうか・・・。早くも便乗商法の皮算用。
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by phasegawa | 2005-02-20 06:52 | review

『対岸の彼女』

等身大の人を語るのが上手いという著者。なるほどこれは共感を得そうだ。「他者との付き合い方」に怯え、戸惑い、一定の距離を置きたいのだけど、一方で誰かとわかり合いたい寂しさを感じている人。高校生の頃の自分と今の自分とで何が違っているのか、いったいいつまで自分は自分のままなのだろうと思う人。そんないまどき風の人物らを、自在な空間軸、時間軸の中でたんたんと描いている。話は単純なのだが、感情移入を誘う筆さばきは巧みだ。
本書の登場人物はほぼ女のみである。女の世界の話であっても気にせず買って読んだ理由は、直木賞受賞ということも大きいが、書評などに友情の話と書いてあったからかも知れない。「所詮女の友情なんて・・・」という言い方があるが、少なくとも私には友達と呼べる人が少なく、私の周囲の男達も似たような状況に見える。私の妻の男友達は、私の男友達よりも多いくらいで、女友達の数にいたっては2桁違いそうである。女達の友情の秘密がわかると、私に友達がいないことに何らかの納得できるヒントが得られるのではないか、そんな想いが頭をよぎったか。で、結局、男の私でも感情移入できる部分はあったのである。ラーメンを食べながら娘に語りかける父親のシーンばかりでもなくである。
それにしても、この本の広告コピーは本の内容とまったくかけ離れている。
「全身で信じられる女友達を必要なのは、大人になった今なのに・・・  ともに35歳、子持ちの「勝ち犬」主婦・小夜子と、独身・子なしの「負け犬」女社長・葵。ふたりの間に真の友情は築けるのか!?」
売上最大化のためには、出版社は確信犯になる、ということなのだろう。
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by phasegawa | 2005-02-03 19:19 | review

『希望格差社会』

ああキャッチーだという印象があり、Amazonのレビューで確認してから購入。特に1995年頃以降、日本社会のリスク化、二極化が進んだ結果、将来の自分の職業、所得、結婚などの選択に希望を持てなくなったり、目をそむけようとしたりする人が増えた。増加するフリーターや引きこもり、自殺者の数字をはじめ、雇用や家族、所得のデータやインタビュー調査にそれらが反映されている。暗澹たる現実をしっかり見据えた上で、個人の能力開発の機会を公共的にも補うべきとする。
実はこの本、買ったばかりなのに今朝の大江戸線の車中に置き忘れて失くしてしまい、最後の公共的施策の提言内容が何だったかいまいち記憶に残っていない。だが、多くの読者も政策に何を期待するかの話よりは、「努力が報われない社会」という絶望的な指摘にまずは慄然とさせられるのではないか。嫌な世になったものだと嘆くのか、自分はまだましなほうと安堵するのか。なにくそと奮起するのか、身分相応でいようと自戒するのか。他人の頑張りも挫折もなかなか推し量れず、希望を持てよ、と強要できるものでもないのだろうが、せめて自分においては欲張ることを恐れないでいたい。
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by phasegawa | 2005-01-07 05:19 | review
気にかけていた日本電産の社長を書いたを店頭で見つけたので即購入、即読了。
社会人1年生の頃、私はこの永守氏と私の勤め先のボスが対談した新聞記事を何百枚とコピーしては、会社案内に挟み込んで毎日飛び込み営業をしていたものである。その明快さと烈しさ故に尊敬できる経営者。この本によって永守氏の新たなエピソードを知ることとなったが、いずれもさもありなんというピシッとした話だった。
自ら率先してのハードワークは有名だが、1年のうち休むのは元旦の午前中だけ、後は365日働き、毎朝一番に出社、夏休みなしとは知らなかった。
新入社員の採用試験を弁当の早食い競争でやった話は知っていたが、この試験は継続できるものでない。翌年は、便所掃除試験、翌々年は試験会場先着順、更には大声試験、留年組専門採用試験をやっていたという。学歴や成績があてにならないことを自社のデータから確信しているらしい。人の能力差は普通は2~3倍で、せいぜい5倍。しかし、やる気、「それやろう」、「今日は絶対売るぞ」、「絶対に悪い品物出さんぞ」といった意識は100~1,000倍違う。だから、頭のいい人を採るよりも意識の高い人を採った方が会社はよくなる。
これまで23社の企業を買収してきて、一人も人員整理をしてこなかったと言うが、クビにしなかっただけで、ハードワークを楽しめない人材は不用という考えは徹底している。トヨタからの転職組は辞めないが、ゴーン以前の日産から来たのは半分辞める、ということで、そこに企業の格差を見る。
猛烈なだけでなくアイディアもある。28歳の創業当初は実績がなくて国内で仕事が取れず、自社製モーターの試作品を鞄に詰めアメリカまで営業に行って3Mから受注して漸く成長軌道に乗せた。3Mは発注の条件として工場の視察を要求したが、民家の一角を借りたような粗末な場所は大企業相手にとても見せられない。京都観光と芸者三昧でスケジュールを埋め、視察目的の来日の筈が遂に工場に立ち入らせることなく成約にこぎつけたそうだ。
89年に買収した信濃特機は、HDD用スピンドルモーター市場を二社で95%のシェアを取る、抜きつ抜かれつの競合先だった。技術的にほとんど差がないのに最終的に日本電産が勝ち残ったのは、信濃特機が商社を使った営業であったのに対し、日本電産は全て直販であったからだという。営業の過程で顧客ニーズを汲み取って製品に反映させるマーケティング力が勝敗を分けた。
日本電産の2005年3月期の連結売上高予想は4,800億円、営業利益は485億円、現在のグループ従業員は7.2万人ということだが、2010年に売上1兆円、営業利益1,000億円、グループ従業員10万人を目指すという。そのとき永守氏は65歳。そして、85歳になる2030年には売上10兆円、従業員100万人が目標と高らかに宣言する。あくまでメーカーでありSONYやGEのように金融業はしない。高収益、高株価、高成長を基本にした雇用の最大化、シンプルな経営者の義務には違いない。奇人と言われようが、少なくともこれまでは有言実行を重ねてきた。ビジネススクールでマネジメント理論を習得するとか考えるよりも、こういう非凡な人に接するのが経営を学ぶには余程いいと思う。
続けて、6年前の著書も見つけたので読了。文句のつけようがない。
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by phasegawa | 2004-12-16 13:23 | review

『市場の中の女の子』

14世紀のベネチアやアラビアを舞台にし、主人公である15歳の少女が市場を見つめ、体験することで経済学のエッセンスに触れてゆく。ファンタジー仕立ての展開で、布団の中で熱にうなされ夢うつつ状態で読むのに丁度よかった。
主流派の新古典派経済学の意義を説きつつも、新しい経済学として文化の経済学を紹介している。
たとえるなら、一つの大きな川の流れの中をいろいろな段階の経済として複数のボートが流れてゆくのを観察するのが従来の経済学、文化の経済学とは、川の流れ自体が幾筋もあることを前提にそれぞれのボートの流れ方を別個に捉えるアプローチとする。
川の流れが幾筋もあるというのは、その国特有の歴史や言語が人の経済活動に与える影響が思いのほか大きかろうという発想によるもの。
人は合理的に行動する、という命題に意味があるとしても、文化が違えば異なる行動を取りうる。当たり前のような話だが、そういう行動を理論化することに熱心な学者達がいる。時間があれば、自分も新しい経済学に接してみたいとは思う。
この本は、ほとんど絵本と言ってよいほど伸びやかな挿絵がふんだんにちりばめられ、文章もとてもやさしく書かれている。誰でもわかる経済学の類の本はたくさん出されてきたが、ついにここまできたかという感じ。
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by phasegawa | 2004-12-07 11:47 | review