長谷川新多郎の備忘録。最近は写真中心。


by phasegawa
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『下流社会』

モノからコトへの時代に求められるのはストーリーテラーの才能だろう。藤野さんもえらく推奨していたが、マーケターならでは、ポイントの抉り出しと展開の巧さを感じた。本書の大半が政府が行なった国民生活における階層意識の世論調査の結果を基にした著者の考察なのであるが、ふ~ん、と納得させられる話が多かった。以下、一部を要約して引用。
--
自分が上中下のいずれの階層に属するか、というアンケート調査において、全世代の中でこの10年、特に団塊ジュニア世代の階層意識がどんどん低くなっている。社会人になるまでの間、バブル景気の豊かな消費生活に酔い痴れた身には無理もないことと考えられる。

「成果主義、能力主義」に肯定的な人は、男性では階層意識が下の人ほど、女性では階層意識が上の人ほど多く、「年功序列、終身雇用」には男女とも「中」意識の人ほど肯定的で全体では女性の方がより強く否定的となる。正規職員を中心とする「上」においては無能な上司や男性の壁を破るために、非正規職員を多く含む「下」においては正規職員との差別をなくすためであろう。

企業の行動で言えば、「いつかはクラウン」が高度成長期のトリクルダウン型消費にはフィットしていたが、今日の階層化社会では、「いきなりレクサス」のマーケティングとなる。カップラーメンも年収700万円以上向けの健康志向のものと年収400万円未満向けの100円で買えるものに二極化される時代。

階層固定化を防ぐべく完全な機会均等社会を実現したら結果の差はすべて純粋に個人的な能力に帰せられるかもしれないが、それはそれで過酷な社会ではないか。究極的には、頭の悪さや無気力の原因を遺伝子に求めることになる。近年のテレビ番組の脳ブーム、IQブームはそうした優性思想をオブラートにくるんだものと言えないこともない。

機会均等よりも機会悪平等を回避できるとよい。そのためには国立大学の学費を安くする、大学の授業のネット配信、地方出身者への資金援助などが考えられる。また、ノブレス・オブリージュの意識をもっと醸成させ、「上」の人から寄付を募るべきであろう。
--(引用終わり)
明解な類型化や上・中・下の階層化が説明され、いかにもなキャッチフレーズも満載、メディアや投資家向けにむしろ事態を煽動している感があるのだが、こういうストーリーを強引にでも作ってしまうことが商売になる。現に本書は9月の発売から2ケ月で紀伊国屋全店で1万冊超の実売を上げている。もう30万部位刷っているだろうか。

一部、悪乗りを感じさせる内容への批判も、結論部で大学への依存心が強すぎるとの指摘も、もっともと思った。年の初めに読んだ『希望格差社会』同様、「提言」よりも「煽り」の本にも思えなくもない。内田さんは、保守政治やジェンダー論に対する階層間意識差に反応していた。

およそこういう本は、読者の商売のためではないとしたら、自分は下流や下層じゃない、と確認して安心したかったり、下流の連中(イマドキの若者?)には困ったものだと、大人が溜飲を下げたいために読まれるものかも知れない。自分にとって縁遠いよりは、明日は我が身的な危機感を喚起する感じがあるといいのだろう。その点、私の場合は、本書冒頭の下流度チェックによれば、以下の通り、どっぷり下流に浸かっているのであった。(半分以上あてはまったら「下流的」らしい。)

・年収が年齢の10倍未満だ。・・・× 正しくは「10万倍未満」ということか。
・その日その日を気楽に生きたいと思う。・・・◎
・自分らしく生きるのがよいと思う。・・・◎
・好きな事だけして生きたい。・・・◎
・面倒くさがり、だらしない、出不精。・・・◎
・一人でいるのが好きだ。・・・◎
・地味で目立たない性格だ。・・・◎
・ファッションは自分流だ。・・・○ ダサさを容認する意味で。
・食べるのが面倒くさいと思うことがある。・・・○ 胃がもたれてラッキーと感じることもある。
・お菓子やファーストフードをよく食べる。・・・△ 前者は食べないが、後者は好き。
・一日中家でテレビゲームやインターネットをして過ごす事がよくある。・・・△ ゲームは殆どしない。
・未婚である(男性で33歳以上、女性で30歳以上。)・・・×
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by phasegawa | 2005-12-03 22:27 | review
津本陽による渋沢栄一の伝記、上巻下巻。学生の頃に城山三郎版を読んだが、もう手元にもなく内容もよく覚えていない。今回読んだ方が史実を淡々を追って小説らしくなくなったかと思ったが、手掛けた事業の幅広さにあらためて驚嘆する。農家出身、横浜焼討ちを企てた尊攘志士が思いがけず一橋家に仕え、明治になるや大蔵官僚になって辞めて、銀行を作って、株式市場を作って、紡績、肥料、造船、ガス、セメント、ビール、その他数え切れない事業や教育機関や福祉施設を立ち上げた。にもかかわらず、三井、住友、岩崎(三菱)らのようには名を残さない。明治末から大正にかけて(70歳から82歳!)の間に排日運動の高まるアメリカに4回渡航し、関係悪化を避けるべく奔走した。

77歳で実業界から引退したが、その1916年、第一銀行の株主総会にて頭取辞任を発表した時の言葉。
「およそ合本(株式)会社の首脳に立つ者でも、事務に従う者でも、その職につくについて、人から命ぜられたのであるからと思うと、自己と他を差別して、これは己れの物ではないという観念が生じます。
そうなると、かならずほんとうの精神は入りませぬ。ゆえにその事を処するには、すべての財産が自己に専属したものの如く観念して、最善の注意と最善の努力とを致さねばならぬ。さようにその事物をわが所有と思うと同時に、すべての貨財は全く委託されている他人の物である。この委託されている物もいやしくも法度外に処置したならば、自己の職責をあやまるので大罪悪といわねばならぬゆえに、自己はまったくこの会社の公僕であるということを寸時も忘れてはならぬ。
ところが、公僕を忘れぬようにすると、わがものと思って勉強するほうがとかく留守になり、さりとてわがものと思う勉強心が強くなると、公僕の精神を失う恐れがあります。
これは合本会社を処理するうえにおける通弊でありますし、わが物と思うと、思い過ごして自由にしたくなる。人の物と思うと精神が少なくなって形式のみに流れる。かくのごとき有様では、すべての事物、ことに生産殖利の事業に於て成功するものではないということを、断言してはばからないのであります。」

面会希望者には誰とでも会っていたが、事業を始める際の心得を尋ねられると、以下の4点を検討し、納得がいったならば始めよ、と説いていたらしい。当たり前といえば当たり前だが、それがなかなか難しい。

一、それが道理正しいかどうか。
二、時運に適しているかどうか。
三、人の和を得ているかどうか。
四、おのが分にふさわしいかどうか。
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by phasegawa | 2005-11-25 23:41 | review

『切腹』

映画を観るにあたって、誰かの勧めであるとか、雑誌やネットのレビューをきっかけにしてであったとしたら、別に珍しくもあるまい。ところが、今回は日経の「私の履歴書」がきっかけである。今月連載中の仲代達矢がとても面白いのだ。主観であるが、非常に文章が上手い。上手い役者という理想に向けてもがき続けてきたのがよくわかる。先立たれた妻への想いを吐露する潔さもいい。俳優の自伝に魅かれて、その俳優が自ら代表作という作品を観てみたくなったのだ。
これまでそれほど多くの作品を観て来た訳ではなく、仲代と言えば、「影武者」、「乱」、「二百三高地」などで演じられた、鬼気迫るギラギラした目を剥き出す狂人役であったり、無口で憔悴、超然とした役柄の印象が強かったのだが、近頃観た「阿修羅のごとく」での浮気する父親役には好感を感じていた。憎めない、向田邦子ワールドの貴重な一員としてはまっていると思った。たぶん眼光の迫力が狂人役をうってつけにさせるのだろうが、この人は一見不器用そうでいて本当は芸域の広い役者なんじゃないかと思う。
同じ黒澤映画でもカラーになる以前に出演した「用心棒」や「椿三十郎」の方がいい。監督から「蛇のようにやれ」と指示されたというニヒルな敵役の仲代は、不敵な笑みや凄みを利かせた睨みによって存在感を出し、三船敏郎のいかにも男っぽい魅力と対照的なクールな渋さが効果的なエンターテイメントの構図を作り出していた。
切腹」であるが、小林正樹監督による1962年の作品。黒澤映画よりも派手さがない代わりに、仲代の独白によって展開するストーリーの台詞がなかなかによい。斬り合いのシーンが通常の時代劇に比べるとチャチな気がしたが、もとより素浪人仲代と家老三國連太郎の問答の絡み合いがこの映画の真骨頂である。英語圏のスマートな法廷劇にも似ているのではないか。「武士の面目とは所詮上辺を飾るだけに過ぎぬのではござりませぬか」と朗々と繰り返す仲代の問いかけは、侍が途絶えた現代においても色褪せない。武士とは、誇りとはどんなものか?を考えるきっかけとして手っ取り早い、よく出来た日本映画があることを何故知らなかったのか。長編だが、同じ小林・仲代コンビによる「人間の条件」が今は気になっている。
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by phasegawa | 2005-11-21 23:48 | review
ストラテジー研究のための課題図書。ポイントと思しき部分を一部要約して抜粋。

◆ソフトウェア企業の戦略の基本を考えるにあたっての選択
1.主として製品企業なのか、サービス企業なのか?
製品の標準化がどこまで可能か。製品企業は時間の経過と共にサービス企業になることが多い。サービスは製品より儲かりにくいが、不況や市場の成熟化が進んだ場合は、サービス&メンテ収入の獲得が必然になる。製品企業は、サービス企業との中間にあるハイブリッド・ソリューションという業態に行き着き易い。
2.ターゲットは個人か法人か、マス・マーケットかニッチ・マーケットか?
世界市場は北米50%、欧州31%、アジア15%。個人向けの標準化製品は、書籍出版に似て、ヒットすれば莫大な利益となるが、続編やアップグレード製品を売るのは難しい。法人向けは教育、コンサル収入に繋がったりで、売上は大きいが、コストも大きい。マス・マーケットをターゲットとするのは合理的だろうが、たいていはニッチプレイヤーになる。
3.製品またはサービスは、どの程度水平的(広い)か垂直的(特定業種へ特化している)か?
定期的に自社製品を再評価し、単体で売るのか、複数一体のパッケージで売るのか、また、提供範囲が適正かどうか判断すべき。水平型市場でのヒットのためにまず垂直型市場で足がかりをつかむ必然性はある。単独で生き残れない弱い製品は、無駄に抱き合わせて生き残らせるべきでない。
4.好不況にかかわりなく入ってくる継続的な収益源は確保できているか?
サービス売上が安定をもたらすが、サービス収益のエンジンになるのは製品販売である。製品とサービスの境界を曖昧にする、レンタルのようなアイディアも試みられている。
5.メインストリーム市場の顧客をねらうのか、「キャズム(溝)」を回避しようとするのか?
キャズムは、アーリー・アダプター(先駆者)とアーリー・マジョリティ(早期購買多数層)との間にある。キャズムを乗り越えてメインストリーム市場で成功するためには、「製品中心主義」から「市場中心主義」にマーケティングを切替えなければならない。ニッチプレイヤーであれ、自社が属する市場の業界標準のポジションを獲得し、マーケットリーダーにならねばならない。
6.目指すのはマーケットリーダーかフォロワーか、それとも補完製品メーカーか?
たいていの企業はフォロアーを選択し、補完製品メーカーとなる。
7.会社にどのような特徴をもたせたいのか?
戦略立案には自社をどのような組織にしたいかについての具体的な意思決定が必ずついて回る。

◆同期安定化プロセスを確立させたマイクロソフトの開発戦略の指針
1.大きなプロジェクトを、複数の中間目標の連続体に分割し、それぞれに予備期間を設ける(プロジェクト全体に必要な時間のおよそ20-50%)。製品メンテナンスのための別のグループは設けない。
2.プロジェクトを方向づけるために、マーケティングの専門家でもある製品リーダーが開発目標と概略機能仕様書を利用する。創造的な人材を集めるよりも、創造性を方向づけることの方が重要。
3.ユーザーの活動とデータに会わせ、基本機能を選択し優先順位づけを行なう。仕様書の機能は最後には30%以上が変更される。段階的な開発やリスクを評価し、管理する手順に戦略を持たずに技術的挑戦を続けると破滅に向うことがある。
4.モジュール式および水平型アーキテクチャを発展させる。製品構造をプロジェクト構造に反映させる。モジュール間の相互依存を低くすることで、チーム編成を小さく、同時並行作業が可能になる。
5.小さな作業に対する各人の責任分担とリソースを固定化し、プロジェクト管理を単純化する。プロジェクトは毎日・毎週の単位で厳しくチェックされ、同期化される。

◆起業に向けての成功条件
1. 強力な経営陣
強いチームであることの1つの要素はメンバーの経験水準、もう1つは人材の幅。
2. 魅力的な市場
高い参入障壁があったり、競合が存在せず、価格競争を避けられること。
3. 顧客をひきつける新しい製品、サービス、ハイブリッド・ソリューション
客観的な評価基準で、他社製品より格段に「よい」とどれだけ言えるか。
4. 顧客が関心をもっているという強力な証拠
クライアントの実際の購入意向を示す注文書や仮契約書があるか。
5. 「信頼性ギャップ」を克服するための計画
スタートアップ段階の企業の90%は失敗すると見なされてという常識を覚悟したほうがいい。
6. 初期の成長と利益を生む可能性を示すビジネスモデル
長い目で見て欲しい、は甘い。短期と長期のバランスが必要。
7. 戦略と提供する商品の柔軟性
「今日の市場で我々はカネ儲けをしなければならないが、そのための最良の方法は何か?」
8. 投資家に対する大きな見返りの可能性
一般的には7年以内に25%以上の投資収益率。IPO前提の事業計画が望ましい。
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by phasegawa | 2005-09-14 00:01 | review
すっぴんで可愛く、強い女は、他に何もいらない。
余命2ケ月と宣告されても黙ってやるべきことをリストアップし、淡々とこなせる主人公は魅力的に描かれていた。なので、癌の末期のボロボロな身体や苦痛に顔をゆがめる壮絶シーンがないことも、最後まで自分の思惑通りに事を進めようとするわがまま放題であったこともとやかく言うまい。良き夫がいながらなぜ不倫に走る、と疑問視する声があったが、それを意識させないほどに場面場面は美しくスマートだし、むしろ育児やマンネリ化した日常の全てから解き放たれたい欲望には自然に共感させられる。17歳で初キスした男とすぐ結婚、2児出産、トレーラー暮らし、父親は監獄、男は求職中、といった具合で充分過ぎるほど駆け足で息の抜けない23年間の人生という設定なのだし。原題は"My life without me"。ピンクのパッケージが上手い。

私だったら、どんなリストを用意するだろう。
さしあたり、墓は新調したばかりだし、棺桶に入れてもらいたい物は妻に伝えた。

彼女がその晩、喫茶店で書いたメモ。

THINGS TO DO BEFORE I DIE
1. Tell my daughters I love them several times a day.
2. Find Don a new wife who the girls like.
3. Record birthday message for the girls every year until they're 18.
4. Go to the Whalebay Beach together and have a big picnic.
5. Smoke and Drink as much as I want.
6. Say what I'm thinking.
7. Make love with other men to see what it is like.
8. Make someone fall in love with me.
9. Go and see Dad in Jail.
10. Get some false nails. (and do something with my hair)

しかし、いざ死を前にして本当にメイクラブに夢中になりたくなるんだろうか。実際はそれどころじゃないんじゃないか。癌だったからまだいいとして、AIDSみたいに伝染る病気だったら相当怖い存在だ。考えてみると、突然の死期宣告という実はあまり実感の沸かない設定を持ち出すことで、いつ死ぬかわからないんだから今不倫したっていいのよ、今機会がなくても死ぬまでにはいつかチャンスはあるわよ、死ぬ気になったらいつでもなんでも願いは叶うのよ、と現世を享楽的に生きようとする観る者を肯定し、励ましてくれる映画にも思えてくる。
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by phasegawa | 2005-09-09 23:57 | review
未だ20代の著者。Amazonの書評ではかなり辛辣な評価が見られるが、私が無知なだけなのかも知れないが、つまらないとは思わなかった。
私は、SNSの普及がもたらしたことは、自分を演出する意識の高まりだろうかと考えていたのだが、東浩紀氏の系譜と思われる著者が言う「データベース化する人間関係」という視点の方が明快だ。

「対人関係のデータベース化は、それが電子的に保存され、かつ通信手段と一体化している場合において、それ自体が対人関係であるかのようなイメージを私たちに与える。具体例としてあげられるのは、ケータイのアドレス帳に登録された『友人』との距離に関する、若者たちの意識だろう。(中略)ここで生じているのは、対人関係が、何か事実的な繋がりを持った、体験に根ざしたものではなく、<繋がりうること>へと意味的な転換を生じているということだ。そしてその<繋がりうること>を支えるのが、通信手段と一体化したアドレス帳なのである。事実、幾人かの学生が、アドレス帳が消えてしまうと連絡の取れなくなる友人がいると答えている。」

mixiのトップページでは、友人の数と一覧が明確に可視化されている。こうした友達データベースの可視化はどのようなインパクトをもたらすのか。簡単な答えは、データベースとのやりとりの中で自足する人間関係へと、友人関係が閉じられていく事態が生じうるということ。そして、この考えの延長として「個人化」が議論され、近代の社会学で個人化のプロセスは、リニアなモードの段階からノンリニアなモードの段階へと移行しているとする説を紹介する。

「リニアなモードの個人化の特徴は、いわば『我思う、故に我在り(I think, therefore I am.)』といったものだ。社会学における自己論はこれまで、社会心理学者G・H・ミードによる説明に代表されるように、人は様々な社会関係の中で必要とされる『役割』を発達過程の中において学習し、そうした社会関係に応じて変化する『客我(me)』を統一的に把握する『主我(I)』との二重構造において自己意識を獲得するものと考えてきた。『客我』とはつまり『知られる私』ということなのだが、『知られる私』のことについて『知る私』としての『主我』を通常は『アイデンティティ』と呼ぶ。
しかし、ノンリニアなモードの個人化においては『我は我なり(I am I.)』という断定のみが存在する。前者に存在するのは『反省(reflection)』だが、後者では『再帰(reflex)』が個人化を特徴づけている。つまりそこには、私が私であることの確信になるような内的メカニズムが欠如しており、個人とは、他者との関係の中でころころ変わる『知られる私』の集合に過ぎないということになっているわけだ。(中略)
社会学がこれまで想定してきた自己は、社会関係の中で自分に期待される役割を取得し、それを統合する自我を育て上げる『社会化(Socialization)』の働きを非常に重視してきた。しかしながらノンリニアなモードの個人化が進行する社会においては、他者との関係の中で必要とする役割(me)を取得し、それを的確に演じ分けるアイデンティティ(I)を取得する、といったような『社会化』のプロセスは弱体化せざるを得ない。むしろ必要となるのは、場面場面に応じて臨機応変に『自分』を使い分け、その『自分』の間の矛盾をやりすごすことのできるような人間になること-いわば『脱-社会化(De-Socialization)』なのだ。
『脱-社会化』された個人が、現実の社会を生きる上で必要とするのは、現在直面している社会関係の中で期待される役割を正しく演じるための感性であり、その感性の問い合わせ先としてのデータベースである。つまり、個人化によって可能になる『わたしは、わたし』と無反省に断定する振る舞いは、その都度その都度、データベースに対して自分が振る舞うべき『キャラ』、期待される『立ち位置』を確認するという作業によって可能になっているのである。」

その時々のキャラに応じた「これが本当にやりたいことなんだ!」という瞬発的な盛り上がり(カーニヴァル)と、本当はそんなものなど何もないという冷めた状態(宿命論)とが共存するのがノンリニアモードで個人化された時代の自己のありようとされる。自分の幸福を予期する構造が、反省的なコミュニケーションから、データベースとの自閉的な往復運動による確率的回答によって返されるようになるのである。

無反省で自閉的なデータベースとの問い合わせプロセスは、メタ次元の一定の価値観による判定、例えばマス・メディアの影響力の弱体化に繋がる。代わって登場するのが、「ネタ消費」とも言える事態であり、そこでは、あらゆる対象がデータベースから参照され、自足する再帰的運動として繰り返される。

反省よりも再帰、連続よりも刹那、統一よりも分断。幸福を我が身のデータベース・アルゴリズムに従って感知できることは、幸福について悩み、自己決定を迫られることに比べて正に短期的には「幸福」なのだろう。その先について、著者は、若い世代への説教も結果的に階級社会の招来に取り込まれかねない可能性をほのめかしているが、分析から更に進んで何かを提言しようとしているわけではない。誰がどういう幸福を求めようが、祭りで騒ごうが、当人の勝手と言えばそれまでの話ではある。
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by phasegawa | 2005-08-19 23:39 | review

『シリウスの道』

あまり小説を読む方ではないと思うのだが、藤原伊織は好きで、『テロリストのパラソル』、『ひまわりの祝祭』、『てのひらの闇』に続き、最新作を読む。やはり面白かった。本書の特徴は、まず広告業界の内側を描いた企業小説であること。なかなかイメージできなかった、オリエンとか競合の実態とか、大きなヤマとなるプレゼンの場面、そうした場で発言する、広告代理店の「営業」と「内勤」の人々。内勤とは更に、クリエイティブディレクターと社外の制作プロダクション、マーケティング局、PR局、イベント局といった専門部署に分かれ、そうしたプロフェッショナル達が18億円の仕事を受注するために15人も一緒になってチームを組むとき、どんな議論になるのか、電通で長く働いてきた著者ならではのリアル感だろう。それを感じさせるのは、相変わらずの会話の上手さでもある。言葉の巧みないい人ばかりが登場し過ぎているのが非現実的と言えなくもないが、普通のサラリーマン達の物語のはずが、なんともカッコよい硬派なエンターテイメントになっている。複線となるのは、他の作品同様、過去の記憶をたどる心の揺らぎである。25年ぶりに再会を果たした、主要な登場人物達は、離れ離れに違う人生を歩んだが、13歳の時に刻み込まれた甘酸っぱい記憶、苦い記憶をそれぞれに切なく引きずり続けていた。その痛々しさに痺れる。私の13歳も、思えば幸せの絶頂期だったかも知れない。57歳の著者は、今春、食道癌で5年後の生存確率が20%であることを公表した。長生きして多くの作品を残して欲しい。
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by phasegawa | 2005-07-22 06:52 | review

伊丹万作の59年前の文章

随分昔に坂口安吾のたぶん堕落論だかで知って以来かねがね読んでみたいと思っていたエッセイ「戦争責任者の問題」に漸く初めて接することができた。『だまされることの責任』という佐高信と魚住昭の対談集の冒頭に15頁ほどで載っていたのだが、終戦の翌年の混乱期に発表されたにも関わらず、なんとも鋭く潔い言葉に驚いた。今日においてもまったく色褪せていない。以下、一部を抜粋。

「少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか。(中略)
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはいないのである。だまされたとさえいえば、いっさいの責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、『だまされるということ自体がすでに一つの悪である』ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるものである。我々は昔から『不明を謝す』という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであって、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といってよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが『不明』という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかったらとしたら今度のような戦争は成り立たなかったにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作もなくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。(中略)
『だまされていた』という一語の持つ便利な効果におぼれて、いっさいの責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に暗澹だる不安を感ぜざるを得ない。
『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。」(『映画春秋』1946年8月号、同年9月に伊丹は46歳で逝去。追記:全文がネット上でも読めることに気付く。こことか。)

私自身の中にも、深く考えることを面倒がり、周囲の空気に何となく同調し、自己のいっさいを誰かにゆだねてしまいたくなる自分がいる。そうした自分に抗おうとするもう一人の自分もいないことはないのだが、気をつけていないと、もう一人の自分もそもそもの自分も、すぐに溶けてなくなってしまう。
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by phasegawa | 2005-07-16 20:55 | review

野村監督の私の履歴書

野村監督の連載が本日で終了した。34歳からプロの監督を務めていた人がアマチュア野球という格下の世界に身を投じた事実だけでも興味深いのであるが、この人の、苦労と栄光と挫折の繰り返しの半生を知るにつけ、やはり一貫したものがあるのだなと知らされた。自分の打席で代打を送られ、その代打が打ち損じることを祈っている自分に気がついた時に現役引退を決意したという。自身のもがき苦しんできた姿を晒している点で、自慢話ばかりの政治家などとは雲泥の違いの面白さであった。

なるほどと思ったのは、ヤクルトと阪神のチームカラーを比較した話である。
「ヤクルトでは私の哲学、思考が乾いた土に水が染み入るように選手たちに浸透していっていると感じたものだが、阪神では何を言っても馬耳東風、聞く耳を持たないという感じだった。(中略)阪神は生え抜き意識の強い球団で、外から来た人間に強い違和感を持っている。しかも、ファンもフロントも、マスコミまでも選手たちをかわいがる。球団創設六十年以上の歴史の中で出来上がった甘えの体質。『井の中の蛙』でずっと野球をやってきたので、私のような考える野球を理解できなかたのではないか。ヤクルトの選手が『大人』なら、阪神の選手は『子供』とつくづく感じたものだ。」
典型的な阪神の選手が今岡であり、能力があるにもかかわらず、それを出そうとしないと言う。
「覇気がないというか、一生懸命さが見えてこない。がむしゃらにプレーすればすごい選手になると思っていたからこそ、何度も監督室に呼んで注意したものだ。」
ある日、手抜きとしか考えられないプレーについに監督の堪忍袋の緒が切れた。
「監督室に呼んで、『お前、胸を張って一生懸命やっていますと言えるか』と問いただした。だが、無言。何を聞いても答えない。チームのムードを壊すし、仕方がないので二軍に落としたのだった。
禅に『前後裁断』という言葉がある。その一瞬、その一瞬に命を賭けて全力を尽くす、という意味である。プロの選手なのだから一プレー、一プレーに、自分の持てる力のすべてをぶつけなければならないのは当然のこと。だが、阪神では、『体力』『気力』『知力』『技術力』の四要素のうち、最も基本的な気力の面を問題にしなければならないのは寂しいことだった。」

野村監督には寂しい顔、ぼやく顔ががよく似合う。

「結局、今岡については、最後まで理解できずじまい。今でこそチームの中心となって働いているが、私が監督のときは、ファンを裏切る無気力プレーの連続に、泣かされ続けたのだった。」
今や阪神の打点王、大スター今岡のかつてのプレーはそんなにファンを裏切っていたのだろうか。むしろ一番裏切られたのは、ファンよりも野村氏個人ではなかったか。
仰木監督の粋な計らいだったオールスターのピッチャー・イチローには激怒し、阪神では3年連続最下位という不名誉を演じた野村氏なりに、野球ファンに対してはどう想いを馳せてきたのだろう。かつて野村氏を奮い立たせてきた、羨望と反骨の対象だった読売の人気も最近ではすっかり落ちぶれてしまっている。

阪神ファンの一途な応援と甘やかし体質は、世の中の物事には光と陰の両面がある真理をそのまま反映していると思う。タイガースっていいよね、というプラスの共感エネルギーは、それがあまりに甘美なために、人の弱さや甘さの多くを覆い隠してしまう。その辺が野村氏にはよく見えていたのだろう。3歳で父親をなくし病気の母を助ける極貧生活の中這い上がり、王・長嶋に匹敵する実績を出しながら「ボクは人の見ていないところでひっそり咲く月見草」と自分を語る野村氏には、清濁を知り尽くした人間の透徹した視点と同時に屈折した心根を感じてしまう。

野村監督をしてもお手上げだったダメ虎を劇的に立て直したのが星野監督だった。野村氏はオーナーの言葉を借りて自分と星野氏を冷静に比較している。「詰めが悪かった」と自分を認めるその様は確かに潔くはある。だが、間違っても缶コーヒーのCMなどにはお呼びがかかりそうもないキャラクターにしても野球理論にだけは絶対の自信を持っていたはずの野村氏は、自らにどう折り合いをつけていたのか。

連載の冒頭、野村氏は中国の思想家・呂新吾を引き、自身の監督人生は、でこぼこ道を「深沈厚重」たる指導者を目指して歩んできたと言っていた。「考える野球」こそ氏の神髄。しぶとくも底知れぬ暗さが魅力の人である。
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by phasegawa | 2005-06-30 22:35 | review

『働くということ』

80歳のイギリス人がILOから刊行した
1930年、ケインズは技術進歩の恩恵によって「100年後にはわれわれは週15時間程度だけ働くようになっているはずだ」と予言した。しかし、世の中はその後、逆の方向に進んだ。それは、人間の際限のない消費の欲望、競争意識、仕事中毒症のせいであり、競争を肯定する哲学が自由市場主義であった。
市場至上主義のスローガンは、「自助自立」、「自己責任」、「依存排撃」、「選択の自由」、「結果の平等ではなく機会の平等」、「自主性」、「起業心」といったフレーズ。この論法によって、社会の連帯意識や労働者保護思想は後退し、強者が益々強者になるべく格差の拡大が進んでいる。そうした市場主義は、ビジネス・スクールから排出されるグローバル・エリートに象徴されるアメリカの文化的覇権と、市場主義に従わない者に資本の枯渇を強いる金融市場の力によって世界的同質的に浸透を続けている。
しかし、著者は、金融市場のグローバル化も経済制度も未だこれから選択の余地があるとする。たとえば、資本対労働のバランスにも三種ある。即ち、ナイフが抜かれた状態の敵対関係にあるアングロ・サクソン型、ナイフが鞘に収まり、ルールに従って交渉・妥協する大陸ヨーロッパ型、ナイフが戸棚にしまわれて錆び付いた状態、つまり慣習の惰性によって維持されている日本型があるとする。
日本型の労使協調的価値観は、株主の利益こそを唯一の目標とするアメリカのプレッシャーにもっとも強くさらされているが、今後、資本主義の多様性が失われることも考えにくく、アメリカの覇権が永続するとも考えられない。中国の経済的成功が自然に文化的影響力を蓄えていくことにもなるかも知れない。

アメリカの覇権に懐疑的であるが、その根拠が充分に語られているとは思えなかった。だが、永年の研究家なだけに博識である。徳川時代の日本人が個人の満足追求よりも社会的有用性を重視したことを好意的に語っている。渋沢栄一がリスクについて語った話は初めて聞いた。「起業家リスクと投機的リスクの道徳的違い-つまり、結果が幸運だけでなく、顧客を喜ばそうとする努力で決まる場合と、結果が幸運と狡猾さだけで決まる場合との違い」について。今日、同一のリターンを得るためなら最小のリスクを選ぶのが投資の正論であり、リスクに道義的な区別などはつけないものだが。
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by phasegawa | 2005-06-13 00:26 | review