長谷川新多郎の備忘録。最近は写真中心。


by phasegawa
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2005年 07月 16日 ( 1 )

伊丹万作の59年前の文章

随分昔に坂口安吾のたぶん堕落論だかで知って以来かねがね読んでみたいと思っていたエッセイ「戦争責任者の問題」に漸く初めて接することができた。『だまされることの責任』という佐高信と魚住昭の対談集の冒頭に15頁ほどで載っていたのだが、終戦の翌年の混乱期に発表されたにも関わらず、なんとも鋭く潔い言葉に驚いた。今日においてもまったく色褪せていない。以下、一部を抜粋。

「少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか。(中略)
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはいないのである。だまされたとさえいえば、いっさいの責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、『だまされるということ自体がすでに一つの悪である』ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるものである。我々は昔から『不明を謝す』という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであって、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といってよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが『不明』という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかったらとしたら今度のような戦争は成り立たなかったにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作もなくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。(中略)
『だまされていた』という一語の持つ便利な効果におぼれて、いっさいの責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に暗澹だる不安を感ぜざるを得ない。
『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。」(『映画春秋』1946年8月号、同年9月に伊丹は46歳で逝去。追記:全文がネット上でも読めることに気付く。こことか。)

私自身の中にも、深く考えることを面倒がり、周囲の空気に何となく同調し、自己のいっさいを誰かにゆだねてしまいたくなる自分がいる。そうした自分に抗おうとするもう一人の自分もいないことはないのだが、気をつけていないと、もう一人の自分もそもそもの自分も、すぐに溶けてなくなってしまう。
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by phasegawa | 2005-07-16 20:55 | review