長谷川新多郎の備忘録。最近は写真中心。


by phasegawa
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2005年 06月 20日 ( 1 )

査定と目標

スケジュール表の中に"査定MT"がずらっと並ぶ季節になった。
「査定」とは、手元の大辞林によると、「物事を調べて、その等級・金額・合否などを決めること。」とある。ならば、Meetingの中で、「来月のボーナス、こんなんでどう?」「冗談でしょ。そんなはした金ではやる気が出ないので他社に行きます。」「まあまあ、じゃあ君にだけちょっと色つけるから。」などといった生々しい会話ができると有意義なのかもしれない。でも、こんなんでどう?の世界だといかにも査定者の恣意性が働いて不公平な感じだ。なので、企業としては、客観的で公平な人事評価制度を厳正に運用している姿勢を打ち出さなくてはならない。そんなこともあって、今年は新しい評価シートの導入となり、表の桝目をたどったり、掛け算をすることで、評点がはじきだされるようになった。その評点の数字を元に更に何らかの係数を導き出し、総賞与予算に乗じることで支給額が決定されるとすれば、なんともシステマティックな感じではある。しかし、そんな風にして全てが決まることは、たぶんない。

現在のフォーマットに従えば、自分が設定した計画目標の達成度如何が点数算出に大きく意味を持つ。とすれば、自分の計画目標がいかに自分にとっては挑戦的であるかという点をことさら強調しつつ、目標を達成し易いように都合よく設定することが評点最大化のためには合理的な行動になる。そうなると、例えばこんな会話が発生してくるだろうか。上司「君にはもっと高い目標をもってもらいたいんだ。」 部下「無理です。これが精一杯です。これでも自分にとっては大いに達成しがいのある目標です。」 上司「そんなことはないはずだ。彼だってこれだけ頑張るって言ってるんだ。君ならもっとできるだろう。」 部下「できるかどうかわからないことをできると言うのは無責任です。」 上司 「君には期待しているんだ。やってみなくちゃわからんじゃないか。」 部下「自分のことは自分が一番わかってます。無理をすれば逆に他の仕事が疎かになるかも知れません。」 上司「いいから。これは業務命令だ。」 部下「やれって言うならやりますけど、どうなっても知りませんよ。」 こうなってくると、社員の士気はあまり上がりそうもない。

どこまで高い目標を設定するか、「挑戦的」の定義とは何なのか、そんな話をてんでバラバラにあちこちで繰り広げることが企業にとってプラスなのかどうか。いっそ社員個々の目標を自己設定ではなく、最初からトップダウンによって決定・通達する方式の方が公平かも知れない。少なくとも、部下の目標の妥当性を判断する上司の段階においては、一致した共通認識が生まれていないと成り立たない。それは、理屈というより価値観の領域に属する話ではないか。おそらく、会社の目標とは何か、その目標に到達するためにできうることは何か、といった議論をしつこく重ねることで少しづつそうしたカルチャーみたいなものが醸成されてくるのだろう。いずれにしろ、目標管理に基く人の査定は、容易なことではない。

ゴーン氏によってすっかり有名になった用語が「コミットメント」である。達成のために厳しく責任を感じなくてはならない目標、ということで、日本語にすると長ったらしくなる。それほど日本語の「目標」の概念があいまいだったということか。まあ確かに「不退転の決意」とか言っても誰も本気にしないかも。要するに日本の経営者に目標意識が薄かったと。順序としては、まず経営者がシンプルでクリアなビジョンを示し、コミットせよ、達成できなければ即刻辞任せよ。その覚悟を持った上で、社員に対してもコミットを求めよ、ということになる。やはり経営の責任は重い。

ゴーン流の定義によれば、結果に責任を負うコミットメントよりも更に高い目標が「ターゲット」である。私も、達成度云々とは違う次元で、より高い目標に向かって、自分を反省し、学び、付加価値を身につけようとする姿勢を重視したい。自分はかくいう人間である、と決め付けるのではなく、目標設定にあたり、従来の思考の殻を破ってでも、違う自分の可能性を模索しようと考え抜く意識の有無に関心は向くのである。

ドラッカー氏は、1954年の著『現代の経営』の中でGMの経営者の言葉を引用している。曰く、「どんな馬鹿でも予算を守ることはできる。しかし、守るだけの価値ある予算を立てられる人は、めったにいるものではない」と。また続けて言う。「誤った予測に基づいた目標に従うくらいなら、全然目標を持たない方がまだましである。」 耳の痛い話だ。
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by phasegawa | 2005-06-20 00:01 | business