長谷川新多郎の備忘録。最近は写真中心。


by phasegawa
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『カーニヴァル化する社会』

未だ20代の著者。Amazonの書評ではかなり辛辣な評価が見られるが、私が無知なだけなのかも知れないが、つまらないとは思わなかった。
私は、SNSの普及がもたらしたことは、自分を演出する意識の高まりだろうかと考えていたのだが、東浩紀氏の系譜と思われる著者が言う「データベース化する人間関係」という視点の方が明快だ。

「対人関係のデータベース化は、それが電子的に保存され、かつ通信手段と一体化している場合において、それ自体が対人関係であるかのようなイメージを私たちに与える。具体例としてあげられるのは、ケータイのアドレス帳に登録された『友人』との距離に関する、若者たちの意識だろう。(中略)ここで生じているのは、対人関係が、何か事実的な繋がりを持った、体験に根ざしたものではなく、<繋がりうること>へと意味的な転換を生じているということだ。そしてその<繋がりうること>を支えるのが、通信手段と一体化したアドレス帳なのである。事実、幾人かの学生が、アドレス帳が消えてしまうと連絡の取れなくなる友人がいると答えている。」

mixiのトップページでは、友人の数と一覧が明確に可視化されている。こうした友達データベースの可視化はどのようなインパクトをもたらすのか。簡単な答えは、データベースとのやりとりの中で自足する人間関係へと、友人関係が閉じられていく事態が生じうるということ。そして、この考えの延長として「個人化」が議論され、近代の社会学で個人化のプロセスは、リニアなモードの段階からノンリニアなモードの段階へと移行しているとする説を紹介する。

「リニアなモードの個人化の特徴は、いわば『我思う、故に我在り(I think, therefore I am.)』といったものだ。社会学における自己論はこれまで、社会心理学者G・H・ミードによる説明に代表されるように、人は様々な社会関係の中で必要とされる『役割』を発達過程の中において学習し、そうした社会関係に応じて変化する『客我(me)』を統一的に把握する『主我(I)』との二重構造において自己意識を獲得するものと考えてきた。『客我』とはつまり『知られる私』ということなのだが、『知られる私』のことについて『知る私』としての『主我』を通常は『アイデンティティ』と呼ぶ。
しかし、ノンリニアなモードの個人化においては『我は我なり(I am I.)』という断定のみが存在する。前者に存在するのは『反省(reflection)』だが、後者では『再帰(reflex)』が個人化を特徴づけている。つまりそこには、私が私であることの確信になるような内的メカニズムが欠如しており、個人とは、他者との関係の中でころころ変わる『知られる私』の集合に過ぎないということになっているわけだ。(中略)
社会学がこれまで想定してきた自己は、社会関係の中で自分に期待される役割を取得し、それを統合する自我を育て上げる『社会化(Socialization)』の働きを非常に重視してきた。しかしながらノンリニアなモードの個人化が進行する社会においては、他者との関係の中で必要とする役割(me)を取得し、それを的確に演じ分けるアイデンティティ(I)を取得する、といったような『社会化』のプロセスは弱体化せざるを得ない。むしろ必要となるのは、場面場面に応じて臨機応変に『自分』を使い分け、その『自分』の間の矛盾をやりすごすことのできるような人間になること-いわば『脱-社会化(De-Socialization)』なのだ。
『脱-社会化』された個人が、現実の社会を生きる上で必要とするのは、現在直面している社会関係の中で期待される役割を正しく演じるための感性であり、その感性の問い合わせ先としてのデータベースである。つまり、個人化によって可能になる『わたしは、わたし』と無反省に断定する振る舞いは、その都度その都度、データベースに対して自分が振る舞うべき『キャラ』、期待される『立ち位置』を確認するという作業によって可能になっているのである。」

その時々のキャラに応じた「これが本当にやりたいことなんだ!」という瞬発的な盛り上がり(カーニヴァル)と、本当はそんなものなど何もないという冷めた状態(宿命論)とが共存するのがノンリニアモードで個人化された時代の自己のありようとされる。自分の幸福を予期する構造が、反省的なコミュニケーションから、データベースとの自閉的な往復運動による確率的回答によって返されるようになるのである。

無反省で自閉的なデータベースとの問い合わせプロセスは、メタ次元の一定の価値観による判定、例えばマス・メディアの影響力の弱体化に繋がる。代わって登場するのが、「ネタ消費」とも言える事態であり、そこでは、あらゆる対象がデータベースから参照され、自足する再帰的運動として繰り返される。

反省よりも再帰、連続よりも刹那、統一よりも分断。幸福を我が身のデータベース・アルゴリズムに従って感知できることは、幸福について悩み、自己決定を迫られることに比べて正に短期的には「幸福」なのだろう。その先について、著者は、若い世代への説教も結果的に階級社会の招来に取り込まれかねない可能性をほのめかしているが、分析から更に進んで何かを提言しようとしているわけではない。誰がどういう幸福を求めようが、祭りで騒ごうが、当人の勝手と言えばそれまでの話ではある。
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by phasegawa | 2005-08-19 23:39 | review