長谷川新多郎の備忘録。最近は写真中心。


by phasegawa
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幸せ

誰かが「俺は幸せを知らない。」と冗談半分に嘆いていた。我が身を顧みて「では、俺は幸せを知っているのか?」と問うに、はて、よくわからない。
幸せの実感とは、自分の主観であって他人が窺い知れるものではない。だから、周囲から幸せそうに見える人達、たとえば裕福な家に生まれたとか、所謂三高、才色兼備、素敵な彼氏彼女がいる、友人が多い、結婚して子沢山とか・・・ こういう人達は、幸せの条件を備えていると世間からは言われそうだが、どんなに傍から羨ましがられたところで本人達が実際自分らは幸せであると思っているかどうかはわからない。収入の多寡や勤め先の企業規模の大小で比べたとして、幾分の自己満足なり周囲の目を意識しての優越感なりを得られるものかも知れないが、それで測定できる幸せ度は絶対的なものではない。
幸せを知るとは、不幸を知ることでもあるだろう。前述のような恵まれた境遇にいた人が何らかのはずみで転落してしまった場合、最初から良い状況を知らなければ落ち込まないで済んだかも知れない。恋愛をしない人が失恋しようがないように。逆に言えば、心から傷つくような不幸を味わずして幸せをかみしめる想いは経験はできないのかも知れない。不幸を極めることが幸せの絶頂に登りつめるための確実なルートであったりして。
「ささやかな幸せ」とは言うが、「大きな幸せ」とはあまり言わない。ささやかな幸せほど、幸せを望む人の手に届きやすいからであろう。道端で百円玉を拾うような幸せなら大抵の人が知っているはずだ。
幸せを知っている人とは、幸せとはその程度である、と割り切れた人であるとも言える。自分を肯定する力とも言えるであろうか。今、自分は幸せであると思えるとしたら、それはそれで結構なことだなのだろう。だが、本当にそれで満足していられるのか。自分が未だ全く気づくことができていない幸せをどこかに見つけられないのか。それは、まだ知らない自分の可能性に飢えることかも知れない。自分を知れば知るほど、探せば探すほど、取るに足らない自分の空虚さを感じてしまうものだ。それでも、自分を疑ったり肯定したり、一喜一憂したりながら、幸せを追いかけてもがいてゆかねばならないのだろう。やれやれ。
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by phasegawa | 2005-06-10 05:27 | diary