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長谷川新多郎の備忘録。最近は写真中心。


by phasegawa
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『魂の労働-ネオリベラリズムの権力論』

これの次に選んだ。いきなり「エピステーメー」とか出てきて思想用語がとっつきにくかったが、そのぶん前者よりも体制についての考察が深く、理解できた箇所だけでも思いのほか面白かった。

資本主義や自由競争、自立や自己実現を志向する意識。そうした今日の常識の背景にも権力のゲームが発生し、勝者陣営による意図が働く。著者の言う勝者とは、「家族的価値の回帰を唱える新保守主義、市場原理による福祉国家解体をねらう新自由主義、権威主義的ポピュリズム、これらの接合によって出現した新たな権力」であり、ゲームの主導権を決定づけた転換点は1968年であったとされる。

言及対象は、生産中心社会に続く「脱工業社会」、肉体労働や精神労働同様の「感情労働」、労働の商品化が困難な点で感情労働に似る「介護」、同じく「QC活動」、「企業社会」、「消費社会」、「社会(コミュニティ)参加活動」、「リスク社会」、グローバル化の帰結としての「見せしめの貧困」、「宿命論と親和的な自己責任言説」等。

働く人の何気ない自発性が期待されがちな労働の現場をこれだけ広範囲に渡って一貫性を持った支配構造として説明されるのは新鮮だった。分析のフレームワークはいろんなケースに応用できそうだ。権力の都合のいいように、私達は知らず知らずのうちに考え、行動させられているのだと気づかされる。だから何なの?何に抵抗するの?と素朴な疑問もあるだろうが、実感が沸きにくいことこそを恐怖せねばならないのか。以下引用。

 「ネオリベラリズムにおいては<怠惰>は罪である。(略)しかし、<怠惰>への非難や攻撃にはたんなる寛容の欠如以上の積極的理由があるのではないだろうか。
 正規雇用層と非正規の不安定雇用層とのあいだに階層分化が進行しつつある現在、同一労働にもかかわらず歴然と存在する賃金と社会保障の格差が問題になりつつある。ここで問題となっているのは、非合理な格差という以上に、この非合理性を基盤としてかろうじて保たれている『正規』雇用勤労者の自己肯定ないし威信の揺らぎと不安である。自分たちの労働には価値はなく、むしろ遊んでいる者の<労働>のほうに価値があるとしたら?怠け者のほうが生産的であるとすれば?あるいは、サボりが能動的であるとすれば?価値が『尺度の彼岸』」あるというポストモダン的事態の全面化は、<マジメ>な者たちにこのような実存的不安を惹起ずる。ここに不安を抑え込む必要性が生じる。彼ら<マジメ>なマジョリティに安心を与え、この格差を最終的に正当化するものこそ、勤勉を美徳とする労働論理ではないだろうか?勤勉な主体としての自己肯定は、<怠惰>への道徳的攻撃によってはじめて可能となる。
 (中略)
 『君たちは働くべきだ』というネオリベラリズムのワークフェア言説は、若者にじっさいに勤労意欲を喚起させることを本気で狙っているわけではない。やりがいのない、しかも低賃金の労働を若者が率先して行うなどと、いったい誰が本気で信じるだろうか。
 そうであるなら、『自己実現』、『労働の喜び』、『やりがい』といったことを強調する言説が後を絶たないのはなぜだろうか。こうした言説は言う。賃金は低くても、やりがいのある仕事なら満足すべきだ、と。だが真に魅力的でやりがいのある労働であれば、外部からのどんな正当化も不要のはずである。また内在的な「労働の喜び」を有しているなら、そのことを褒めちぎる言説を待つまでもなく、誰かが率先してやっているはずである。とすれば、これらの冗長な言説は、労働倫理を教え込むというより、<怠惰>への道徳的攻撃を可能にするという理由で採用されていることがわかる。結局それは<働かざる者>=<遊ぶ者>の自己価値化への<反動>、すなわち反動(ルサンチマン)に基いており、この自己価値化によって生産された価値を再び剥奪するのである。
 (中略)
 日本においても、近年の『フリーター』や『無職』の若年層が犯罪予備軍としてコード化され、無価値なもの、さらには危険なものに貶められつつある。(略)だが、これら価値剥奪戦略としての取り締りが発動するのは、彼ら若者こそ『自分のなし得ることの果てまで進んでいく力』すなわち自己価値化のポテンシャルを有しているがゆえであり、その力への恐れゆえの<反動>なのである。
 (中略)
 『自分のなし得ることの果てまで進んでいく力』とは対照的に、ネオリベラリズムが生産し、依拠するのは自己検閲的な主体である。ネオリベラリズムにおいては、他者(=市場、消費者)による自己の評価があらゆる評価に優先される。つまり自分の行動や労働や作品が、市場においてどう評価されるかが自己の行動、労働、作品において最優先事項となる。その原理はマーケティングであり、市場における評価=検閲がフィードバックされ内面化された場合、それを通常、自己検閲と呼んでいる。そして、自己検閲によって生み出された『力』は、何も生み出さない者に従属しているという点で空疎であるのみならず、空疎であることを『称賛』しようとする点で、さらにきわめて<反動的>である。『ニーチェが弱者とか奴隷とか呼ぶのは、最も弱いものではなく、その固有の力がどのようなものであれ、自分のなし得ることから分離されている者のことである』(ドゥールーズ)。他者のまなざしを糧にする価値や力はそれ自体、寄生的なものにすぎない。自己検閲的主体とは、『自分のなし得ること』からあらかじめ分離されている者のことであり、この分離という事態にすら気づかない者のことである。」
by phasegawa | 2005-05-03 21:36 | review